今月の判例コラム

労働協約と過去の賃金債権(最高裁第一小法廷 平成31年4月25日判決)

1 はじめに

 最高裁判所は、①具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分することの可否、②労働協約により支払いが猶予された賃金の弁済期の時期及び③労働組合による当該賃金を放棄する合意の有効性が争われた事案において、①について労働協約の遡及適用が認められる旨判断し、②について具体的に認定せず、③について当該合意は有効であるとした原審の判断と異なる判決(一部破棄自判・一部破棄差戻・一部上告棄却)を言い渡しました。

 本件では、「過去の賃金債権を不利益に変更する場合には、当該労働者からの特別の授権が必要である」という最高裁の考えが明確化されたと考えられ、実務上、重要な指針となることから、最新労働判例の1つとして、今回のコラムでご紹介させて頂きます。

2 事案の概要

(1)前提事情

 Y社(被上告人)は、貨物自動車運送等を業とする株式会社であり、X(上告人)は、平成15年2月1日、Y社に雇用され、生コンクリート運送業務を行う営業所において、生コンクリートを運送する自動車の運転手として勤務していました。XとY社との間の労働契約においては、月例賃金は毎月20日締めの末日払いとされ、毎年7月と12月に賞与を支払うとされていました。同契約におけるXの平成25年8月から同26年11月までの支給分の月例賃金(家族手当、食事手当及び交通費を除く。以下同じ。)は月額59万5850円であり、同25年12月及び同26年7月の支給分の賞与は各76万5000円でした。Xは、a労働組合b支部(以下「a労組」といいます。)に所属しています。

(2)1回目の労働協約

 Y社は、経営状態が悪化していたことから、a労組及びそのe合同分会(以下「a労組等」といいます。)との間で、平成25年8月28日、以下の内容の労働協約(以下「第1協約」といいます。)を書面により締結しました。

ア a労組等は、Y社が提案した年間一時金を含む賃金カットに応じる。カット率は、家族手当、食事手当及び交通費を除く総額から20%とする。
イ 上記アの期間は、平成25年8月支給分の賃金から12か月とし、その後の取扱いについては労使双方協議の上、合意をもって決定する。
ウ Y社は、前記アによるカット分賃金の全てを労働債権として確認する。カットした金額は賃金明細に記載する。
エ 経営改善に関する協議は、労使協議会を設置し、Y社、Y社に対して生コンクリート運送業務を委託している株式会社f及びa労組等の3者で3か月ごとを原則として必要に応じて行う。
オ 本協定に定めのない事項は、Y社は、a労組等と事前に協議し、合意をもって行う。

 Y社は、Xに対し、第1協約に基づき、月額11万9170円の合計143万0040円を、同25年12月及び同26年7月の支給分の賞与については各15万3000円の合計30万6000円をそれぞれ減額して支給しました(以下、この減額による未払賃金を「本件未払賃金1」といいます。)。

(3)2回目の労働協約

 Y社は、経営状態が改善しなかったことから、a労組等との間で、平成26年9月3日、前記イの期間を同26年8月支給分の賃金から12か月とするほかは、第1協約と同旨の労働協約(以下「第2協約」という。)を書面により締結しました。Y社は、Xに対し、平成26年8月から同年11月までの支給分の月例賃金につき月額11万9170円の合計47万6680円を減額して支給しました(以下、この減額による未払賃金を「本件未払賃金2」といい、本件未払賃金1と併せて「本件各未払賃金」といいます。)。

(4)その後の経緯

 Xは、平成26年12月14日、本件各未払賃金及びこれに対する遅延損害金の支払を求める請求に係る部分の訴えを提起しました。Xは、平成27年3月20日、定年退職しました。

(5)3回目の労働協約

 Y社は、経営状態が改善しなかったことから、a労組等との間で、平成27年8月10日、前記(3)の期間を同27年8月支給分の賃金から12か月とするほかは、第1協約と同旨の労働協約(以下「第3協約」といいます。)を書面により締結しました。

(6)その後の状況

 Y社の生コンクリート運送業務を行う部門は、平成28年12月31日をもって閉鎖され、Xが所属していた営業所に勤務していたa労組に所属する組合員2名がY社を退職しました。Y社とa労組は、第1協約及び第2協約によって賃金カットの対象とされた賃金債権の取扱いについて協議し、これを放棄する旨の合意をしました(以下、この合意を「本件合意」という。)。

3 争点

 裁判では、①具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分することの可否、②本件各未払賃金の弁済期の時期、及び③本件合意による本件各未払い賃金の債権放棄の効果が争われました。
 なお、継続雇用の有無という争点もありましたが、これは一審において新たな労働契約は認めらないと判断され、上告人の控訴棄却及び上告棄却となっています。

4 原審と最高裁の判断

(1)原審の判断

 原審は、①について平成25年8月分と平成26年8月分のいずれについても労働協約の遡及適用が認められる旨判断し、②について具体的に認定せず、③について本件合意は、支払が猶予されていた賃金債権を放棄するものであり、これにより、上告人の本件各未払賃金に係る債権も消滅したと認定し、Xの控訴を棄却しました。

(2)最高裁の判断

 これに対して、最高裁は、
 上記①については、「具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分又は変更することは許されない(最高裁昭和60年(オ)第728号平成元年9月7日第一小法廷判決・裁判集民事157号433頁、最高裁平成5年(オ)第650号同8年3月26日第三小法廷判決・民集50巻4号1008頁参照)ところ、上告人の本件未払賃金1に係る賃金請求権のうち第1協約の締結前及び本件未払賃金2に係る賃金請求権のうち第2協約の締結前にそれぞれ具体的に発生していたものについては、上告人による特別の授権がない限り、労働協約により支払を猶予することはできない。そうすると、上告人による特別の授権がない限り、本件未払賃金1に係る賃金請求権のうち第1協約の締結日である平成25年8月28日以前に具体的に発生したものについては、これにより支払が猶予されたということはできないし、本件未払賃金2に係る賃金請求権のうち第2協約の締結日である同26年9月3日以前に具体的に発生したものについて、これにより支払が猶予されたということもできないというべきである。」と判断しました。

 また、上記②については、「…原審は、本件未払賃金1に係る賃金請求権のうち第1協約の締結前及び本件未払賃金2に係る賃金請求権のうち第2協約の締結前にそれぞれ具体的に発生していた賃金請求権の額、第1協約及び第2協約が締結された際の上告人による上記特別の授権の有無、平成28年7月末日以降、被上告人とa労組等との間で支払が猶予されていた賃金についての協議の有無等を認定しておらず、原審が確定した事実関係の下においては、本件各未払賃金の弁済期を確定することはできない。もっとも、第1協約、第2協約及び第3協約は、被上告人の経営状態が悪化していたことから締結されたものであり、被上告人の経営を改善するために締結されたものというべきであるところ、平成28年12月31日に被上告人の生コンクリート運送業務を行う部門が閉鎖された以上、その経営を改善するために同部門に勤務していた従業員の賃金の支払を猶予する理由は失われたのであるから、遅くとも同日には第3協約が締結されたことにより弁済期が到来していなかった上告人の賃金についても弁済期が到来したというべきであり、原審口頭弁論終結時において、本件各未払賃金の元本221万2720円の弁済期が到来していたことは明らかである。」と判断しました。

 さらに、上記③については、「本件合意は被上告人とa労組との間でされたものであるから、本件合意により上告人の賃金債権が放棄されたというためには、本件合意の効果が上告人に帰属することを基礎付ける事情を要するところ、本件においては、この点について何ら主張立証はなく、a労組が上告人を代理して具体的に発生した賃金債権を放棄する旨の本件合意をしたなど、本件合意の効果が上告人に帰属することを基礎付ける事情はうかがわれない。そうすると、本件合意によって上告人の本件各未払賃金に係る債権が放棄されたものということはできない。」と判断しました。

 以上の認定のもと、「以上と異なる原審の前記判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、原判決中、本件各未払賃金に係る請求及びこれに対する遅延損害金の請求に関する部分は破棄を免れない。そして、以上に説示したところによれば、上告人の請求のうち、本件各未払賃金の元本221万2720円を請求する部分は認容すべきである。また、上告人の請求のうち、本件各未払賃金に対する遅延損害金を請求する部分については、その遅延損害金の起算日について更に審理を尽くさせるため、同部分につき本件を原審に差し戻すこととする。」と判示しました(※上記「 」内は判例をそのまま引用しております。)。

5 検討(争点①について)

 労働協約による組合員の労働条件の引き下げが個別労働者にとって不利益なものである場合について、当該協約に組合員を拘束する効力(=規範的効力)が認められるかが問題となりますが、今日の判例は、労働協約が組合員の労働条件を不利益に変更することのみをもってその規範的効力を否定しておらず、例えば、当該労働協約の締結の経緯、会社の経営状態、協約所定の基準の全体としての合理性に照らせば、「同協約が特定の又は一部の組合員をことさら不利益に取り扱うことを目的として締結されたものとはいえず、その規範的効力を否定すべき理由はない」としています(最一小法廷判決平成9年3月27日)。

 しかしながら、その一方で、「既に発生した具体的権利としての退職金請求権」、「具体的に発生した賃金請求権」を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分又は変更することは許されないとされてきました(最一小法廷判決平成元年9月7日)。

 本判決は、争点①において、労働協約における規範的効力を認めた上で、第1協約の締結前、及び第1協約により支払猶予の対象となる賃金の対象期間の後から第2協約の締結前にそれぞれ具体的に発生していた賃金請求権について、「特別の授権がない限り、労働協約により支払いを猶予することはできない」と判示することで、これまでの最高裁の考え方が、労働協約を締結した組合の組合員にも妥当することを明示するとともに、労働協約の限界点を明らかにしたものと考えられます。

6 最後に

 当事務所は、特に企業側に立った労働事案の処理について、豊富な実務経験と知見を有しております。
 解雇や残業代請求等への対応、労働訴訟や労働審判などの裁判手続での代理等、労働組合との団体交渉から、企業買収、合併、企業分割などの組織再編の際に生じる労働問題や、破産・民事再生などの倒産・事業再生案件に際しての労働問題についても、具体的な問題解決のためのサービスを提供させていただいております。

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(担当弁護士 金子典正/同 原野二結花